ミナスティリアス
先の記事で先読みの人達について考察した。彼等か、あるいは私の事情で、彼等の「見なす」力が現実に実感できることを述べる。
人は対象のモノを何かであると見なすことにより、対象のモノはその何かになる。何かに取り憑かれるのである。弱い奴だと見なされると、弱い奴になるのである。これは対象のモノが非常に弱く、かつ離れた自分がもう1人居ることにより実感、自覚できる現象であろう。また気がつかないだけで、いつも何かに見なされていることもあるだろう。親は我が子を我が子と見なすのもその例である。
私はその先読みの人達からは「馬鹿にされていた」のであろう。だから馬鹿が乗り移ったのかもしれない。しかし確実に私の中には馬鹿でない部分があるので、その馬鹿でない部分がそれを観察して乗り移ったことを自覚したのである。精神分裂症なのかもしれない。人畜無害な。
ということを考えて判ったことは、そういう人達は、そういう階層の社会の住人達なのである。そういう世界に本来私は居ないのである。殉教者の如く布教活動をすることもしないのである。一般的で無難な宗教道徳で言われるように博愛と差別無しの精神ではなく、住み分けるのが最善であることが実感できた。そうすれば本来の自分ではないモノに取り憑かれることが無く、生を全うできるのである。
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